「読書本」というもの

Twitterを始めてからめっきりご無沙汰だったこっちですが、やっぱり長文書きたくなることもあるので、うまくすみ分けていこうと思います。

最近「読書メーター」なるものに登録しまして、いろんな「読書人」と交流をしつつ、割と敬遠気味だったいろんな人の「読書本」(命名:kmg)を読んでみようという気になっていろいろ図書館から借りてきたりしました。

具体的には、最近出た「新書がベスト」(ベスト新書・小飼弾)、タイトルが存在感を放っている「本は10冊同時に読め!本を読まない人はサルである」(知的生き方文庫・成毛眞)、あとこの手の本では比較的名著として?取り上げられる「読書力」(岩波新書斎藤孝)の3冊をとりあえずザッと目を通してみたんですね。
わたしとしては、「新書がベスト」はよい本。「本は10冊〜」は人を選ぶ本で、「読書力」は岩波ブランドで過大評価されている本、という印象でした。

さて、こういう「読書本」とは、どういう層を対象にしているのか。それを考えるところから始める必要がありそうです。
読書本の対象は、大きく分けて2つだと思います。「今はほとんど読書をしていないけれど、必要に駆られてor趣味で読み始めてみたい。そのためにまず、先人の読み方を知りたい」という層と、「自分なりに読書をしてきてそれなりに満足しているが、人の読み方を知ればより深い読書ができるだろう」という層です。わたしは一応後者であると自負していますが、もちろんまだまだ、中の下くらいの読書人でしょう。

「新書がベスト」はこの両者を見事に融合させた本であるとわたしには感じられました。本をほとんど読まない人を対象にしたパートがあり、それが比較的親切。妙に煽って読ませようとするのではなく、なるべくハードルを下げようとする姿勢には、著者の「本」愛を感じます。一方で後者への配慮を忘れず、後半の新書レーベルの解説がオリジナリティにあふれています。

「本は10冊〜」はその点煽りすぎ。これを読んだ人が本を読みたくなることは100%ないでしょう。というのはわたしの経験談ですけど。わたしは中高一貫校出身なのですが、中高の現代文の先生がとにかく酷かった。それで、「本を読むとああなるんだな」という負の印象になってしまい、中高はほとんど本を読まずにすごしました(もったいない!)今でも文学作品はその先生を思い出してしまってなかなか手を出せません。
「本は10冊〜」はいきなり、「今本を読んでない人は手遅れ」といった形の導入から入ります。これはね、非常にマズイ入り方だと思うんですよ。本読みのイメージを悪くしている。最後まで読むとそれが狙いなのかとすら思えてきますが、それとこれはちょっと別の話です。一方、すでに読書人となっている人に対しても、冷静になって読むとなるほどと思わせる考え方を書いているのですが、とにかく表現が悪い。読書人は、少なくともこの著者の言う読書人はものを多面的に考えることに慣れています。そういう人は、この本のような暴論に近い形の断言表現は嫌うでしょう。せっかくの良い思考を受け入れがたいものとしている。ただ、よく読むとそれこそが著者の意図であり、「表面的な暴論に惑わされずに情報を得られるようになれ」というメッセージなのではと思えてきますが。

最後に「読書力」なんですが・・・これ、非常にアンバランスな印象なんです。特に序盤。岩波新書というレーベルといい、タイトルといい、少なくともある程度本を読む人が手に取りそうな空気を醸し出しておきながら、中身は「読まないのはよろしくない」という、読書習慣がない人向け。さらにはこれを書いているのが、「教育学者の」斎藤孝であるというのがまた気になる。好意的に見ればこういった氏の書き方の裏にはきちんとした研究成果があり、そのうえで新書にするために省略しているんでしょうが、少なくとも「きちんと学術的に正しいんです」というような素振りは一切見せません。自分の経験上、というスタンスで話は進みます。岩波らしからぬ形です・・・いや、ある意味岩波らしいのかな、主張に妥協がないという意味では。もっとも、斎藤孝という人自体が教育学者というよりエッセイスト的な存在になりつつあるのは事実でしょうから、読者が「斎藤孝の読書本」に教育学的な観点からの考察を求めているかと言われると難しいところではありますが・・・

他にも本の読み方とかこんな読書をしてきた系の本は山ほどあると思いますし、各自好きなものもあるのかなと思います。もともと「本は10冊〜」は評価が二分されていますからいいとして、「読書力」に関してはちょっと穿った見方かもしれません。